建立事例 専正寺「憶昔廟」

「いつでも帰って来られる」をお寺に

「どこかに心の拠点となるような、戻って来られる場所を用意したかった。それもお寺の境内でできないだろうかという思いがあった」

2010年4月、永代供養廟「憶昔廟(いくじゃくびょう)」を建立した浄土真宗本願寺派廣川山専正寺の第14代廣橋隆正住職は、その建立の目的についてこう語る。

新潟県見附市にある専正寺は創建天正10年(1582年)と400年以上の歴史を持つ。
寛永17年(1640年)に現在の地に移って以来、地域の中心として人々に親しまれてきた。 専正寺のある地域は農村地帯で、これまであまり移動する人はいなかったため、住民同士、地域とのつながりも何百年にもわたって維持されてきた。
しかし、高度成長期以降そうした環境にも変化が訪れた。これまで農家の後継者と目されていた子供たちは進学や就職で都会に移り住むようになった。東京など、時間にすれば新幹線でわずか2時間という距離ではあるが、生活の拠点が移ることの影響は大きい。
その人の代では故郷との関係が維持されたとしても、その次の代へと世代交代が進むと縁は薄くなり、いつしか途切れてしまうといったこともある。

こうした動きは、何も地方に限った事ではない。

都市部でも、例えば多摩ニュータウンなど、開発された当時はそこに住むことがステータスとされてきたような町でも、子供が巣立ち、年老いた親だけが取り残されるといった現状がある。若い世代は常に、生まれ育った町を見捨てて、新たな土地を求めて移動していく。そのように人々が移動を繰り返していくのであれば、どこかに「帰れる場所」が必ず求められるようになるというわけだ。

「『憶昔廟』には、自分の命のルーツに出会える場所という意味がある。ルーツというのは多くの命や願い、すなわち『心』を受け継いで今の自分があって、それをまた後の世代に伝えていくということ。ただ、言葉でだけ『心』と言っていても目には見えないものなので、最期の場所として、形の上でも拠点となるものが必要だと考えた。
どのようなことがあっても帰って来られる場所、例えそこに自分の名前のお墓はないにしても、『そこに自分の親も、その前の世代の人々もいるのだ』と感じられる場所だ」つまり、廣橋住職にとっての「憶昔廟」は遺骨を納める場所ではなく、遺骨をきっかけに、薄れかけた縁を復活させるための手段である。そのため、廣橋住職は「憶昔廟」について語るとき「永代供養墓」という言葉は用いない。

「このような施設は一般的に永代供養墓という名称が付けられていて、結果的にはその通りなのかもしれない。しかし永代供養墓と言ってしまうと、遺骨を預けた時点で、『自分の手を離れたからもう関係は無い』と思われる恐れがある。
子供がいない、または都会へ出てしまってお墓を受け継いでくれる人がいないとか、生涯独り身でいるとか、人々のライフスタイルも変化している中で、受け皿は必要である。最終的には永代にわたって、お寺が考えていかなければならないだろう。だが、それまでは、故人と関わりのある人がいる限り、お寺へ足を運んでもらったり、お寺からお参りに寄らせてもらったりという関係は保っていきたい」

従って、「憶昔廟」の使用資格については、廣橋住職は「申し込む以前の宗教や宗派にはこだわらないが、お寺との関係では御門徒さんになっていただこうと考えている」という。
申し込んだ後でも宗教、宗派は不問といった永代供養墓も多く見られるが、廣橋住職の考える「憶昔廟」は「布教のための手がかりの一つ」である。「何らかの形で、浄土真宗の教えと出会っていただくことが大切である」ということを念頭においているため、従来の門徒と同等となる。

浄土真宗本願寺派 専正寺様
取材協力:(株)鎌倉新書

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